みことばの真実 6

前回の続きからお届けしています。

ぜひ先に「みことばの真実5」をご覧になってからお読みください。

https://powercityjapan.org/%e3%81%bf%e3%81%93%e3%81%a8%e3%81%b0%e3%81%ae%e7%9c%9f%e5%ae%9f-%ef%bc%95

第一サムエル記 3:1、3:10

1 少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。

10 そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話ください。しもべは聞いております」と申し上げた。

ここに出てきた1節「主のことば」と10節「主」は同じ人を指しています。

エレミヤ書1:1~14

1 ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。

2 アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。

3 それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった。

4 次のような主のことばが私にあった。

5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」

6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」

7 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。

8 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。―主の御告げ―」

9 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。

10 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」

11 次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」

12 すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」

13 再び、私に次のような主のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」

14 すると主は私に仰せられた。「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。

上記の聖句をよく観察すると、「主のことば」と「主」という表現が交互に使われていることがわかります。

これは、主のことばが人格を持ち、主が主であるという事実をさらに裏付けています。

預言者たちの書物の中で、主は万軍の主と呼ばれることもあります。

第一列王記19:4~11

4 自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」

5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい」と言った。

6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。

7 それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」と言った。

8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。

9 彼はそこにあるほら穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は、「エリヤよ。ここで何をしているのか」と仰せられた。

10 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らはいのちを取ろうとねらっています。」

11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。

5節と7節には「御使い」「主の使い」という表現が出てきます。

そして、9節には「主のことば」という表現が出てきます。

これらは同じ人物を指しています。

「御使い」という言葉は行動を表します。名詞というよりは動詞に近い表現です。

神は、自ら預言者に自分のメッセージを伝える場合、自ら使者となることがあります。

その場合は「使者」と呼ばれることもあります。

創世記48:16

すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」

出エジプト記23:20~23

20 見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。

21 あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。

22 しかし、もし御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことごとく行うなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう。

23 わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き行くとき、わたしは彼らを消し去ろう。

ヨハネの福音書1:1~5に戻ります。

1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

2 この方は、初めに神とともにおられた。

3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

ヨハネは、イエスが旧約聖書において目に見える存在であったと述べています。

預言者たちの間でイエスの行動は目に見えるものでした。

預言者たちと共に働く主はイエスでした。

前回のブログで書きましたが、すべての人間は目に見える存在ですが、目に見える存在すべてが人間であるわけではありません。

天使は目に見える存在ですが、人間ではありません。

旧約聖書と4つの福音書におけるイエスの行動の唯一の違いは、福音書ではイエスが人間になったことです。

だからこそ、ヨハネは14節でこう書いています。

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

主は今、人となりました。

ことばは今、肉体を持ち、人々の間に住まわれました。

主は常に人々の間に住まわれてきましたが、4つの福音書では人として住まわれました。

ヨハネは、主の栄光は恵みと真理に満ちていたと述べています。

主が人となられたことは、主の慈悲深さに満ちていました。

影も、神秘もありませんでした。

ただ恵みのみ、それが主の本質なのです。

~宣言のことば~

 神がどのような方であるかについての私の知識は、キリストの内にのみ知ることができます。私は神の本質と性格について混乱していません。神は絶対的に素晴らしい方であることを知っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Uncategorized

次の記事

みことばの真実7