みことばの真実8

聖書を読む時に、「自分の存在意義」についてしっかり理解しておくことが大切です。

自分がどのような存在であるかを知ることは、神がそのようなお方かを知ることと同じくらい重要です。

聖書で説明されている自分の存在意義については、五感で理解できるものではなく、啓示によってわかります。

神がどのような方かを知ることも、キリストを信じる者がどのような存在かを知ることも、啓示によってわかるのです。

これまでの説明から、神はキリストにおいてのみ知ることができるということを理解していただいたと思います。

出エジプト記 3:13-15

13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」

14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」

15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

これは、燃える柴のところで神がモーセに語りかけた時のことです。

モーセは、自分が対話している相手の正体を知りたかったので「あなたの名はなんですか」と訊かれたらなんと答えたらいいでしょう?と尋ねました。

神はモーセに「わたしはある」と告げました。

実は、「わたしはある」というのは固有名詞ではなく、むしろ神はモーセに、イスラエルをエジプトの束縛と奴隷状態から救うために、神はイスラエルが必要とするどんなものにも自分がなる、ということを説明していたのです。

エジプトは罪と死のたとえとして用いられ、霊的な死としてたとえられていました。

モーセが神に求めていた名前は、ある約束と関りがありました。

その約束とは、神がアブラハム、イサク、ヤコブに、彼らの子孫をエジプトの奴隷状態から解放するという約束です。

神の名と本質は、神の行いによってのみ理解されます。

神の名は呼称や称号ではありません。

神の名は、神の権威、あるいは影響力であり、贖いの犠牲のわざにおいてのみ明らかにされます。

ルカの福音書 10:21-24

21 ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

22 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」

23 それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。

24 あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」

22節は、父親がどのように知られるか、息子がどのように知られるかに関して明確に書かれている箇所です。

1. 父が子の存在を明らかにする

2. 子が父の存在を明らかにする

それは、神がご自身に関するすべてのことを、キリスト・イエスによって現わしてくださることを意味します。

イエスは21節で、「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」とも言われました。この文では、対照的な二つの言葉が使われています。

1. 「隠す」と「現す」

2. 「賢い者や知恵のある者」と「幼子」

22節にある「すべてのもの」という表現は、前の節を読むと理解できます。

それは、福音の宣教と、福音を聞いた人々の反応のことを指しています。

イエスは70人を遣わして宣教させました。彼らは戻ってきて、自分たちが行ったことをイエスに伝えました。

「神は隠した」と言うことは、神は闇であるという意味になります。

しかし、ヨハネの手紙一1章5節でヨハネは、神は光であり、神には全く闇がないと明確に書いています。

そして、ヨハネの福音書1:4~5でもヨハネは、神は光であると伝えています。

ここで明らかにしておきたい疑問は、「神はどのようにしてご自身を隠すのか」ということです。

その答えは、「神は不信仰な人の心から隠されている」ということ。

人が神の啓示である福音を拒むとき、神はその人から隠されます。

キリストによる神の啓示を認めない人、神はそのような人からは隠されてしまいます。

一方で、神は、信仰を持つ人には現わされます。

どのような信仰でしょうか?神がキリストによってご自分を現わされたのだということへの信仰を持つ人です。

人が福音を信じる時、神はその人に現れてくださいます。

神がご自身を隠すか、それともご自身を現わすかという問題は、人々が福音にどのように反応するかに関係している、ということなのです。

神がキリストにあってご自身を現わされたということを軽視する人間の哲学や、それを科学的に証明しようとするなら、神は隠されてしまうのです。

「賢い者や知恵のある者」と「幼子」という表現は、福音を聞いた人々の態度やアプローチを表しています。

「知恵のある者」とは、多くの知識をもっていることが福音を信じる妨げとなってしまっている人々のことです。

彼らにとって、十字架のメッセージは愚かに映るでしょう。

このような人々は、たいてい十字架のメッセージを聞いたとしても、嘲笑します。

彼らの態度の結果、神は彼らから隠されてしまうのです。

「知恵のある者」は以下の聖書箇所で使われています。

それに反して、「幼子」という言葉は、福音に心で応答し、従う人々の態度を指しています。

彼らは福音のメッセージを嘲笑しません。

神が幼子にご自身を現されることは、人々が福音を信じる時の反応にも見られます。

また、「幼子」という言葉は、霊的にまだ成長していない人々を指すこともあります。

聖書では、「幼子」という言葉は肯定的にも否定的にも使われるのです。

以下の聖句は、「幼子」という言葉が肯定的に使われている例を示しています。

そして、「幼子」が否定的に使われているのは以下の聖句にあります。

神は、救われていない人々から隠されています。

それは、福音に対して心が開かれていないからです。

一方、神は信じる者には現わされます。

なぜなら、その人は心で神がキリストによってご自身を受け入れてくださったことを受け入れているからです。

神が信じていない人から隠されてしまっているのは、その人が何かをしたからではなく、神に向けて心を開かなかったからなのです。

~宣言のことば~

私は福音を信じたので、啓示による知識が与えられています。

私は神が誰であるかを知っています。

神はキリストとなって私に現れてくださいました。

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