みことばの真実7
神が人間にご自身を表される時、私たちはその神をこの世にある物や、被造物に見つけることができません。
神の啓示は、神ご自身によってのみ人間に与えられます。
これは、神が啓示そのものだからです。
私たちは自分の経験や仮定によって神を知ることはできません。
神を人間に表してくれるのはイエス・キリストです。
もし、神の人間への啓示であるイエス・キリスト以外で神を見つけようとするなら、その試みは宗教へと至ります。
宗教というのは、人間が自分の経験、想像、文化、伝統、迷信などによって神を見つけようとする行いを指します。
人が神を見つけようと努力すればするほど、実際の神様からは離れてしまうのが現実です。
パウロは使徒17章で次のように語りました。
使徒の働き17:22~29
22 そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。
23 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。
24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
25 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちの息と万物とをお与えになった方だからです。
26 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
28 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。
29 そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
ここで強調したいことは、以下の3つです。
1. パウロが27節で強調しているように、真の神を知りたいと心から願うなら、神は私たちの誰からも遠く離れてはいない。
2. 人々は無知なまま神を礼拝することができるが、それは宗教と迷信から来たもの。これは25節でも繰り返されている。
3. 神性を、人間の技巧や工夫によって彫られた金や銀や石のような存在と考えるべきではない。これは29節に見られる。
上記で述べた3つ目の点は、世界のほとんどの宗教に共通する特徴です。
これは、人間が想像の中にある、ある種のイメージを神として表そうとする試みに見られます。
キリストを信じる信仰を持つと、神は私たちにとって謎ではないため、私たちはこれ以上、神を探し求める必要がありません。
神はキリストというお方においてご自身を明らかにされました。
しかしながら、神のことばを正しく学ぶ機会が与えられていないために、宗教的になってしまっているクリスチャンもいます。
ヨハネの福音書1:18では、神がどのように知られるかについてさらに明確に示しています。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
「いまだかつて神を見た者はいない」とは、受肉以前には、神が人として現れたのを見た人がいなかったという意味です。
つまり、イエス・キリストが人となられた時に、人々は神と話し、交流したということです。
人々がイエスに触れたとき、彼らは神に触れたのです。
「ふところ」という言葉は、「一緒にあるもの」を意味します。
ギリシャ語では、「ふところ」はしばしば胸ポケットを指します。
それは父と子が一緒にいることを意味します。
「説き明かされた」という言葉は、直接の経験を語り伝えるときに使われます。
それは、自分がその場にいた出来事について話す時に使われ、第三者による報道には使われません。
聖書の別の箇所では、ルカの福音書24:35に使われています。
彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
これは直接の証言です。彼らが目撃したことであって、伝え聞いたことではありません。
使徒の働き 15:14
神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。
これは、シメオンが見たことを説明していますね。
使徒の働き 15:12
すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。
ここでは、パウロとバルナバが彼らの宣教活動を通して何が起こったかを、聴衆に語っていました。
使徒の働き 21:19
彼らにあいさつしてから、パウロは彼の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ話しだした。
パウロは、神が彼を用いて異邦人の間で成し遂げた偉業を聴衆に語っています。
では、ヨハネの福音書1:18に戻りましょう。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
説き明かされたということは、イエスが神に代わって話しているのではなく、神の使いやしもべでもないことを意味します。
イエスは神ご自身です。神として語っていたのです。
これは、父と子が霊において共にいるからです。
父は子を現し、子は父を現します。
父は啓示によって知られます。子もまたそうなのです。
~宣言のことば~
私はキリストにおいて神の啓示を受け取ります。
私は自分の経験や思い込みで神を知るのではありません。
私はキリストの内にあって神を知っています。
ですから、神が私にとってどのような存在であるかがはっきりわかるので、何の混乱もありません。
