みことばの真実9
これまでお伝えしてきたように、信じる者が神がどのような方であるかを知るために、神は経験や夢、幻を用いません。
私たち信じる者は、キリストの内にのみ、神様を見出すことができます。
では、続きをお伝えする前に、キリストを信じる人なら誰もが答えられるはずの疑問を投げかけますね。
キリストを信じるクリスチャンとは、誰でしょうか?
どうしたら、クリスチャンと呼ばれるようになるのでしょうか?
まず、日曜に教会に行くからと言ってクリスチャンとは言えません。
クリスチャンの家族に生まれたと言ってクリスチャンになるわけではありません。
また、異言で祈れるからといってクリスチャンだとは言えません。
水の洗礼を受けたからクリスチャンというわけでもありません。
人がクリスチャンであるということ、言い換えると救われているということに対する揺らがない事実があります。
それは、イエス・キリストが神であるという事実です。
これは、キリストを信じる私たちにとって、紛れもない事実です。
議論の余地もないほどです。
私たちは、イエスが神であると論理的に証明されているから信じるのではありません。
それが私たちの信仰であるからこそ、イエスが神であると信じるのです。
私たちは論理によって信仰を持つようになったのではなく、信仰によって論理に至るのです。
それがすべての信じる者を一つに結びつけているのだとも言えます。
イエス・キリストが私たちの主であるということは、疑う余地のないことです。
ヨハネによる福音書17:3
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
ヨハネはここで、イエス・キリストこそが唯一の神であると書いています。
イエス・キリストを信じないでは、クリスチャンとは言えないのです。
ヨハネの福音書5:23
それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。
父への信仰というのは、つまり御子への信仰とも言えます。
つまり、神への信仰はキリスト・イエスへの信仰です。
子への信仰を持たずに父への信仰を持っているということはできないのです。
ヨハネの手紙第一5:20
しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
ヨハネはここで、イエスが真の神であり、永遠のいのちであることを繰り返し述べています。
信じる私たちの神についての理解は、キリスト・イエスのうちに見出されます。
前回、聖書にある預言者たちの書はキリストとその苦しみ、そしてそれに続く栄光について書かれていることを学びましたね。
へブル人への手紙1:1-3
1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
1節に「多くの部分に分け、またいろいろな方法で」とありますが、それは物事をさまざまな方法で行っていることを指しています。
一部の聖書翻訳では、「多くの部分、いろいろな方法」を部分的な真理、また真理の部分的な啓示と表現しています。
「むかし」とは、預言の書、つまり一般的に旧約聖書と呼ばれる書物を指します。
2節で、著者は神がこの終わりの時には御子において語られたと述べています。終わりの時とは、預言者たちが語ってきたすべてのことが御子において成就された日を意味します。
3節で、著者は預言者たちが言ったように、御子が自ら私たちの罪を清めるということを成し遂げることについて語っています。
ヘブル人への手紙 1章1-3節は次のように要約できます。
1節 預言者たちは、様々な時期に、様々な方法で、父祖たちに語りました。
2節 神は、この終わりの日に、御子によって語られました。
3節 イエスは、預言者たちが語ったすべてのことを、実現する方です。
ここで語られている預言者たちの語ったこととは、全てのもののことではなく、むしろ御子が自ら私たちの罪を清めるということに関して語ったものです。
ペテロはまた、第二ペテロの手紙1:16-21で聖書の預言者たちが語ったことについても伝えています。
16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
17 キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
18 私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。
19 また、私たちは、さらに確かな預言者のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
20 それは何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
21なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神のことばを語ったのだからです。
彼はイエスが人となられたことについて語っています。
彼は、キリストについて書いたものは誰かの空想ではなく、自分が目撃したものだと述べています。
19節で、彼は聖書の預言の成就を「さらに確かな預言者のみことば」と呼んでいます。
彼は預言と複数形ではなく預言と単数形で呼んでいるのです。
これは、聖書の書物全体が一つの預言を中心に織り合わされていることを意味します。
旧約聖書の預言者たちの言葉は成就したのです。
彼は19節で預言者たち、あるいは彼らの言葉を描写するために「ランプ」という言葉を使っていますが、ランプは光そのものではありません。
しかし、ランプは光を放ちます。
彼らの預言は神が語られたものでしたが、光をもたらしました。
彼らが語ったことは次第に明らかになり、目に見えるようになりました。
ペテロは、預言者たちの言葉を通して、徐々に光が差し込み、啓示が徐々に与えられ、真理の一部が明らかになったと述べています。
しかし、キリストにおいて、明けの明星が昇り、夜が明けました。
へブル人への手紙1:3
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
イエスは神の栄光の完全な像と呼ばれています。
つまり、イエスは神がどのような方であるかを明確に示すということです。
預言者たちの場合、語った真理の一部分をまとめ、その上で最終的な結論に到達する必要がありました。
イエスは預言者たちが語ったすべてのことを実証します。
預言者たちが語ったすべてのことの中で、キリストの受肉、人間性、死、埋葬、復活、そして昇天に関して彼らが語ったことの中にのみ、光は見出されるのです。
同様に、パウロはコロサイ人への手紙1章15-19節で、イエスが神であることについて語っています。
コロサイ人への手紙1章15-19節
15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
イエスは教会のかしらです。
教会とは、暗闇から神の驚くべき光へと召し出されたすべての人々の集まりを指します。
コロサイ2:9
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
イエスは、人間として神の完全性を現わしています。
イエスは神を人に明らかにする方です。
イエスがどのような方であるかを知らずに、神の性格と本質を知ることはできません。
告白:私はキリストにあって、神の完全性が私の内に宿っていることを認めます。私は神のすべてを持っています。神は私の内に住まわれました。これが私の救いを確かなものとするのです。
